オフサイドルール再考-9会長 長坂幸夫
オフサイドルールの基本-2
オープンスペース
図の守備側選手青Bの背後に描いた白い丸の地域をオープンスペースと呼んでいます。
それは攻撃側選手も守備側選手もいない地域を言います。
攻撃側が得点を成功させるには、このオープンスペースを利用することが大切な戦術となります。
それは赤選手がボールをこのオープンスペースに蹴った時に赤1選手がボールを取りに行けばオフサイドの反則になります。
しかし、赤1の選手は動かず、赤2選手が青Bの選手をかわして走り込みボールを取った時は反則にならないのです。
それは赤2の選手はオンサイドの位置からスタートしたからなのです。
この青B選手の背後にあるオープンスペースがサッカーの試合の争点となっているのです。
このオープンスペースは青Bの選手が前進すると大きくなり後退すると小さく狭くなります。
そして、オープンスペースでFWがボールを得た時はゴールキーパーと1対1となる得点の絶好のチャンスとなるのです。
日本代表の岡崎選手はDFの後ろの狭いオープンスペースを常に狙っていて得点するのが得意なのです。
先日行われたアジアカップの決勝トーナメントの第1戦、日本対UAE戦において、
試合開始直後の日本の失点は、日本が相手陣地に攻め上がった時に生まれた大きなオープンスペースを鋭く突かれたことによるのです。
反面、日本は優勢でしたが得点を出来なかったのは、UAEのほとんどの選手が自陣にさがり
オープンスペースを作らなかったために日本には決定的なシュートチャンスが少なかったからだと言えます。
2015.1.25
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オフサイドルール再考―10
会長 長坂幸夫
この連載にもハーフタイムが入ったので、ここで前半を振り返りながら後半に入りたいと思う。
1864年に統一ルールとして14条のルールを定めて英国にフットボールアソシエーション(FA)が誕生した。
その重要なルールの一つにオフサイドルールがある。
それは、唯一の戦術的禁止条項である。
その内容は、第6条「ボールより前方にいる競技者は全てオフサイドである」という極めて厳しいものであった。
しかし、試合はドリブルによる戦術からパスを用いる戦術へと変化して行く。
そのような状況の中で、1867年、FAはこの厳しい条件が緩和し、
「相手競技者が3人いればオンサイド」であるとし、ボールより前方にいても良いことになったのである。
FAが誕生してまだ3年という短い期間にもかわらずルールを変更したその背景には、
FAを構成したクラブには有力なウェストミンスター校などのパブリックスクール出身者がいて、
そこでは既に「守備側選手が3人いればオフサイドではない」というルールを設けていた事情があった。
オフサイドルールと戦術
1860年頃のフォーメーションは8人のフォワード、1人のスリーコーター、
1人のハーフバックそして1人のゴールキーパーというチーム編成だった。つまり1・1・8システムである。
このフォーメーションからオフサイドルールを考えると、ボールより前方にポジションをとったり、
プレーするだけでオフサイドの反則となってしまったのである。
したがって、相手陣内に攻め込むためにはひたすらにボールを前方にドリブルすることしか出来なかったのである。
オフサイドルールが改正された後、1870年頃にはフォーメーションは6人のフォワード、
2人のハーフバック、2人のフルバック、1人のゴールキーパの2・2・6システムになって行く。
ルール改正によって、それまでは不可能とされたボールより前方にポジションをとったり、
前方へボールを蹴ることができるようになった。
そのためボールを奪ったら相手の守備態勢が整わないうちに素早くボールを相手陣内に蹴り込む
キックアンドラッシュ戦法が行われるようになり、ディフェンダーの役割が重要となってきた。
1925年、FAはこの「3人いればよい」としたルールを更に緩和して3人から2人へとルール改正を行ったのである。
その時代的背景には、試合がドリブル主体からパスを多用する戦術へと変わって行く中で
オフサイドの反則が起きやすく、その都度プレーが中断して得点しづらい状況が生まれていたことがあった。
その上、相手がボールを前方にパスしようとした時、フルバックの内の1人あるいは2人が意図的に前進して
相手フォワードをオフサイドの反則にするという特殊な守備戦術が考案された。
これが後年「オフサイドトラップ」と呼ばれる守備戦術である。
英国スポーツマンシップ(ジェントルマンシップ)の崩壊
この「1人のバックあるいは2人のバックを前進させて」意図的に攻撃側選手をオフサイドにする戦術に関する記録は少ないが、Notts Countyというチームが始めたという記録がわずかながら残されている。
このチームは1862年に創設され1885年にプロ化し、1888年のFAリーグの創設に参加した。
さて、その頃、パブリックスクールのフットボールの試合中に起こるオフサイドに対する意識を知ることが出来る詩が残されている。
1883年、パブリックスクールであるロレット校の一生徒が「オフサイド」と題する詩を残している。
ぼくはオフサイドがどういうことか知っているから
今でも試合中に変なことをされると
そいつを「汚い奴」だと決めつけて言ってやるんだ
「あの野郎、ちょっとオフサイドをやらかしたぜ」と
-中略ー
オフサイドなんかで勝つよりは負けた方がましだ
と誇りをもって言える男になっていくのさ
パブリックスクールではオフサイドの位置でプレーするものは「汚い奴、恥知らずな奴」と言われた。
「オフサイドで勝つよりも負けた方が良い」というフェアプレーの精神が形成されていたことが伺える。
オフサイドを犯した選手は「スニーカーと呼ばれるほどの悪者」とされる位のことであるから、
相手選手の意思にかかわらず反則に陥れることは英国紳士を育てるパブリックスクールのフットボールでは
決して許されない極めて卑劣な戦術であったのである。
その頃つまり大正時代の頃、日本の中等学校の生徒にとってオフサイドは「恐ろしい」ルールと捉えられていたようである。
その「恐ろしい」という恐怖感は反則を犯す「恐ろしさ」と同時に反則した選手は
「汚い、恥知らず」という人格的蔑視を恐れたようである。
「サッカーは紳士を育てる」と言われた所以はここにあったのである。
『サッカー人間学 マンウォッチングⅡ』(デズンド・モリス著 小学館 1983年)には
オフサイドトラップに関して次のように書いている。
オフサイド条項を逆用して、特殊な守備戦術が考案された。これがオフサイドトラップの名で知られるもので、
守備側選手全員が素早く前方に移動して、相手選手をオフサイドに陥れようとするものである。
試合のルールに従えば、取り残された相手選手には全く利益を得ようとする意思などないのだから、
このような策略が成功する可能性はないはずである。
選手はだれでも、相手に強制されて“悪意”など持ちようもないはずなのに、
オフサイドトラップがチームによって常套手段となり、
ルール自体を有名無実にしてしまっている。
次回からは、オフサイドトラップはどのような影響をサッカー競技や競技者にもたらしたのかを考えて見たいと思う。
2015.5.24
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オフサイドルール再考―その11
前回にデズモンド・モリス著『サッカー人間学』の中に述べられている
オフサイド・トラップに関する一文を紹介しました。
それは、
「オフサイド条項を逆用して特殊な守備戦術が考案された。
オフサイド・トラップの名で知られるもので、守備側全員が素早く前方に移動して、
相手選手をオフサイドに陥れようとするものである。
…中略…
オフサイド・トラップがチームによっては常套手段となりルール自体を有名無実にしてしまっている」
というものである。
『サッカー人間学』が日本で出版されたのは1983年のことであるから、
それ以前にデズモンド・モリスはオフサイド・トラップをチームの戦術として用いた試合を見ていたに違いない。
私は昨年、そのことを裏付ける一冊の本に出会った。
それは、トーマス・ブルスィヒ著(独)『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』(2012年)である。
物語は審判フェルティヒ氏の独白劇、モノローグとして書かれている。その一節を紹介する。
1980年にベルギー代表チームがそれまで知られていたオフサイドトラップよりも
精密さ、狡猾さ、つまりはその効果においてはるかに優ったオフサイドトラップを開発した。
この年のヨーロッパ選手権では、ベルギーゴールに向かったほとんどのあらゆる攻撃がオフサイドになった。
本来のサッカーの実力ではベルギーよりもはるかに大きなポテンシャルをもったチームが勝てなかった。
みんなオフサイドトラップにひっかかってしまったんだ。
世界サッカーにとって、それまで、そしてそれ以後も何の役割も演じていなかったベルギー人が、
このときばかりはヨーロッパ選手権の決勝まで進んだ。
彼らはオフサイドトラップの仕掛けをシステム化して、まさに芸術の域まで高めたことで
相手を否応なくオフサイドに追い込む戦術の革命を起こしたんだ。
最初の行に「それまで知られていたオフサイドトラップよりも」
と言っていることについて少し説明をしておきたい。
前回述べたように、FAが誕生して間もなくのころ、英国ではプロのチームが生まれた。
1882年にはNotts Countyというチームが、相手チームが前線にいる味方選手にボールを蹴る時を見計らって
バックの1人または2人がタイミングよく前進してその相手選手をオフサイドの反則にしてしまう戦術を用いたのである。
このオフサイドトラップの構図はあまり変化することなく続いていた。
時代とともにチームのシステムは変わっていくが、
試合中のセンターフォワード(CF)に対してセンターハーフ(CH)がマークする形、
両ウィング(RW、RW)に対してそのサイドのバックがマークに当たるというマンツーマンの守備であった。
中盤で相手から中距離パスやロングパスが送られてくるような局面では、
FWとBKの1対1の駆け引きとしてオフサイドトラップが存在していたのである。
マークするバックはこのオフサイドトラップをかけることによって
労せずして相手の攻撃を摘み取ることができたのであった。
バックは自分のマークする相手選手が自陣に向かって戻る動きに合わせて
常に相手選手をマークしながら前進したのである。
日本にチームの戦術としてのオフサイドトラップが伝わって来ると、試合の様子は一変したのである。
守備側はボールを奪い前線へボールをフィードするや全員が一斉に相手FWを置き去りにして上がってしまうのである。
ベルギー流のオフサイドトラップは、あっという間に高校から大学、社会人のチームに広まった。
このころの試合では実に滑稽なことが起きていたのである。
それはオフサイドトラップをかけたバックスは味方が前線でボールを奪われて、
逆に相手からボールが送られてくると一斉に手をあげ中にはオフサイドと大声をあげて副審を見つめるのである。
副審の旗が揚がるや今度は主審を見るのである。
つまりオフサイドの判定を求めるのである。
副審はオフサイドの判定をボールが蹴られた瞬間に行わねばならないから
多くの副審はボールの方向をあまり見定めることなく旗をあげ、
主審は副審の旗があがるとオフサイドの笛を鳴らしてしまうのであった。
さて、このオフサイドトラップが開発された当時の競技規則はどのようなものであったろうか。
1980年の競技規則 第11条オフサイド を以下に原文通りに示す。
2015.6.24
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オフサイドルール再考-12
フェルティヒ氏の独白は続く。
・・・このオフサイド革命にはより重大な意味があった。
ベルギー人たちは相手チームのプレーヤーをルール違反へと何度となく追い込むシステムを用いることで、
ルールを自分たちのために利用したんだ。
そうすることで、やつらはルールを利用しただけ〔では〕なく、まさにサッカーというゲームそのものの意味を変えた。
というのもこれでサッカーでは、相手チームがルール違反をするように挑発することが試みられ始めたからだ。
ルールは、守るためのものではなくなり、相手チームを陥れるためのものになった。
(略)この戦い〔両チームの争い〕での最初の犠牲者は、審判である俺だ。
なぜなら、プレーヤーたちが俺のことを自分たちのチームに、12人目のプレーヤーとして引き入れようとするからだ。
やつらは、俺がやつらの誘導どおりのホイッスルを吹くことを期待しているのだ。
(略)彼らはある時はホイッスルを手段として、ある時はワンツーパスを手段としてプレーをするわけだ。 【p.64-65】
たとえば、「FWがペナルティーエリア内にボールを持ち込み、DFに足を出されて倒れると、
ペナルティーキックを期待して倒れたプレーヤーは主審の方に視線を送りよく見ていたかどうかを確かめようとする。
まわりの味方選手も主審にアピールする」のはよく見かける場面である。
本当は相手の足に引っかけられていないにもかかわらず、その振りをして自チームに有利な判定を主審に要求しているのだ。
つまり競技規則第12条のペナルティーキックで罰する規則を利用して有利な判定を引きだそうとするのである。
フェルティヒ氏の独白は更に続く。
・・・あのベルギー〔チーム〕の連中以来、ルールが試合をコントロールすることはなくなってしまったんだ。
あのベルギー・チーム以来、ルールは試合に引きずり込まれ、試合に押し込まれ、解釈し直され、利用され尽くされた。
サッカーでは、ルールを「プレーする」ようになったのだ。
(略)俺たちも、試合の中へと引きずり込まれた。好むと好まざるとにかかわらず、俺たちは試合の内部に叩き込まれた。
試合の展開に巻き込まれたんだ。(略)一方のプレーヤーが相手に反則を犯させようとして、他方がそれを防ごうとすると、
それはもう「演出」の問題になる。
(略)ここで演じられるのは、「あいつ、反則した!」っていう芝居、そして「いや、やってない!」という芝居だ。
(略)ピッチに登場する時点では、まだ選手はクールなプロフェッショナルで、男らしいイメージを、不屈の男を演じている。
だが、ほんの数分後、そいつは最悪のインチキ、最低の子供だましと言ってもおつりがくるような人間になっているんだ。
そろっと触られただけでも、まるでこっぴどく殴りつけられて、暴行を受けたかのように、もんどりうって地面に倒れる。
一方で、相手チームの選手を蹴飛ばしてプレーできなくしても、知らんふりをする。
「あいつになんか、ぶつかっていませんよ(略)」。
こっちの選手が大げさに作り話をすれば、あっちの選手は事実を隠し、「そんなことしてない」と言う。 【p.67-68】
ワールドカップに見るモラル(スポーツマンシップ)の喪失
マラドーナの神の手
第13回ワールドカップ メキシコ大会 1986年
アルゼンチンは2度目の優勝を飾りマラドーナの大会ともいわれた。
準々決勝 アルゼンチン対イングランド
アステカスタジアム 観衆11万4580人
前半を互いに無得点で後半に入った。51分、イングランドゴール前にボールが送られた。
GKシルトンとマラドーナがジャンプ、マラドーナが一瞬早くボールに触れてゴールを割った。
観客席からは手で押し込んだのか、バックヘッドでシュートしたのか判然としない。
目の前にいたシルトンはすぐ「ハンド」をアピールしたが主審はゴールと判定した。
マラドーナという世界有数の名選手がハンドリングで得点をしたことを主審、副審は見抜くことが出来ず、
11万超の観衆は彼がヘディングで得点したと驚喜した。
彼は得点したことで両手を開いてグラウンドを駆け巡ったのである。
TVカメラだけがその瞬間をとらえていた。
試合後、マラド-ナは「あのゴールは神の手で決まった」という名せりふを残した。
彼は自ら反則したことを認めたのである。
この後、マラドーナは5人抜き、60mのドリブルで2点目をあげた。
試合後、メンバーの一人、バルダーは「あの最初の(神の手)のゴールがあったからこそ、
あの2点目がどうしても.必要だったんだ」と述べた。
アルゼンチンがイングランドに2-1で勝利して優勝につながった試合であった。
主審の見落としというとがが残るのみで、5人抜きの超美技が彼の悪行を覆い隠してしまった。
主審はまさかマラドーナが自分を欺くとは夢にも思っていなかったであろう。
再び神の手 今度は守りの場面で
第14回ワールドカップ イタリア大会 1990年
アルゼンチンは6月13日ナポリで、ダークホースに挙げられていたソ連と第2戦をおこなった。
11分アルゼンチンGKが負傷交代した直後、またも、マラドーナの「神の手」のシーンがやってきた。
1986年の時とは違い、今度は守りの場面、ソ連のCKからのボールがアルゼンチンゴールを襲うピンチ。
マラドーナがソ連のシュートを右手ではたき落とし、相手の先制点を阻止したのである。
「とっさに手がいってしまった」とマラドーナも認めた反則。
しかし、主審にはその瞬間が死角に入って見えなかったのか笛を吹かなかった。ソ連は勝機を逃した。
マラドーナは守りから攻撃に転じ、27分彼のCKからトログリオが得点、28分にはブルチャガが加点して勝利した。
アルゼンチンは決勝トーナメントに進み、ブラジル、ユーゴスラビア、イタリアを破り決勝に進んだ。
決勝戦は西ドイツに1-0で敗れた。
その後もマラドーナはサッカー界の英雄として君臨した。
この大会のテレビ視聴率は過去最高となり、167か国、267億人がこのマラドーナの違反行為を見た。
「サッカーは紳士のスポーツ」は死語となったのである。
2015.7.20
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
オフサイドルール再考-13
FIFAの闘い
ワールドカップにおける1試合平均の得点数 FIFAのホームページより
1980年以降のワールドカップの1試合平均の得点数は、
上表で明らかなようにイタリア大会において最低の2.21になった。
1980年にベルギーによってオフサイドルールを逆手に取ったオフサイドトラップ戦術が作られて以来、
急速に各国に広まったからに他ならない。
当時、サッカーの得点が著しく減少したことが危機感として語られていたことを思い出す。
FIFAはこの問題を打開する方策を打ち出した。この得点の減少の主要因は
オフサイドルール自体から来るものと審判によるオフサイドルールの適用からくるものにあった。
FIFAは得点の機会を増やす方策に取り組んだ。
これは、FIFAにとっては、まさに闘いとも言えるものであった。
オフサイドの条文の変更
その第1が第11条オフサイドの条文の変更である。
1989年までの競技規則第11条オフサイドは以下の通りである。
競技規則第11条オフサイド
1 ボールより相手側ゴールラインに近い位置にいる競技者は、
次の場合を除いてオフサイドポジションにいることになる。
(a)その競技者が競技場の味方側半分以内いるとき
または
(b)その競技者より相手側ゴールライン近くに相手側競技者が2人以上いるとき。
2.ボールが味方競技者に触れるかプレーされた瞬間に、オフサイドポジションにいる競技者が
(a)プレーか相手競技者に干渉している
(b)オフサイドポジションにいることを利用しようとしている。
と主審が判断した場合のみ、オフサイドが宣告され、オフサイドの罰則が適用される。
3.次の場合には、競技者はオフサイドを宣告されない。
(a)ただ単にオフサイドポジションにいるとき
(b)ゴールキック、コーナーキック、スローインからのボール、または主審がドロップしたボールを直接受けようとするとき。 (以下略)
FIFAは1990年に第11条オフサイドの改正を行った。
改正部分のみを記す。
1 (b)その競技者が少なくとも2人の相手競技者より相手側ゴールラインに近い位置にいないとき
オフサイドに関する図解にこの改正点を明示した。
図及び公式決定事項
公式決定事項
(2)後方から2人目、あるいは最後方にいる2人の相手競技者と
同じレベルに競技者はオフサイドポジションにいることにはならない。
1990年版の序文は例年にない論調で記述されておりFIFAの意図を伺い知ることが出来る。
その部分を抜き出すと次のように述べられている。
この版にはFIFAワールドカップ会期中の1990年6月28日にローマにおいて開催された
国際評議会の年次総会で承認された競技規則と解説が含まれている。 (中略)
第11条の改正にはー文章上では小さな改正であるがー重要な変更が含まれている。
改正の真の目的は、より攻撃的なプレーを奨励しようという点にある。
また、この版には国際評議会の決定した強制力を持った指示が含まれている。
それは得点の機会を身体を使った不法な方法で阻止しするような「著しく不正なプレー」を抑止しようと意図したものである。 (以下略)
「文章上では小さな改正である」と称しているが、決してそうではない。
競技規則が17条の条文に整理されて公布されたのは1937年であるから、
それから実に53年を経ての改正を行ったのであるから極めて大きな意味を持った改正であった。
イタリアワールドカップは1990年6月8日の開幕であったから
国際評議会のメンバーは1次リーグの状況を見極めた上での結論であったと考えられる。
ただ、条文の文言は依然として法律文様式のわかりにくい「逆説的」言い回しになっている。
しかし、公式決定事項では「後方から2人目、あるいは最後方にいる2人の相手競技者と同じレベルにいる競技者はオフサイドポジションにいることにはならない」
という極めて解り易い表現となった。この文章が条文になるのは、なお数年後のことである。
主審によるオフサイドの判断
得点減少のもう一つの要因に審判によるオフサイドルール適用のことが考えられる。
これは、第11条第2項の
ボールが味方競技者に触れるかプレーされた瞬間に、オフサイドポジションにいる競技者が
(a)プレーか相手競技者に干渉している。
(b)オフサイドポジションにいることを利用しようとしている。
と主審が判断した場合のみ、オフサイドが宣告され、オフサイドの罰則が適用される。
3.次の場合には、競技者はオフサイドを宣告されない。
(a)ただ単にオフサイドポジションにいるとき
(b) (略)
オフサイドの反則か否かの判断は主審にあり、オフサイドポジションにいる競技者が
(a)プレーか相手競技者に干渉しているか、(b) オフサイドポジションにいることを利用しようとしているか。
あるいは、ただ単にオフサイドポジションにいるだけなのかどうかを判断する問題が生じる。
この判断には競技者がオフサイドポジションにいるという事実関係の他に競技者の意図に対する主審の推測が入ることから、
チーム側はいかにしてオフサイドの反則を免れて自チームが有利になれるかの、通称「オフサイド破り」の戦術をいろいろな形で試みるようになったのであった。
そして、FIFAはこれへの対応を余儀なくされたのである。
オフサイドルールはチームの駆け引きの道具とされ、審判はその狭間に立たされた観があった。
FIFAの闘いはつづく。
2015.8.17
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~