名誉会長 名誉会員
東京都サッカー審判協会(R.A.TOKYO) の創設・発展に顕著な功績があった方々の略歴をここに銘記し永く顕彰します。
名誉会長
長坂 幸夫(ながさか・さちお)
1932年、東京都生まれ。52年、東京都立北園高校卒業、57年、東京教育大学(現筑波大学)を卒業し、
板橋区立西台中学校教諭に着任。東京都立三鷹高校、青山高校、保谷高校、南多摩高校へ転任し、
78年、拝島高校へ教頭として赴任、83年から89年まで調布北高校で校長を務める。
サッカープレーヤーとしては、北園高校時代に南関東予選を勝ち抜き国民体育大会に出場、
東京教育大学時代に関東大学リーグ、全国大学選手権で優勝、
教員時代にも東京教育大学OBチーム・東京茗友クラブメンバーとして国民体育大会に出場する。
審判員としては、選手引退後1級審判員として活動し、
東京都サッカー協会理事、審判委員長、関東サッカー協会理事、審判委員長、日本サッカー協会審判委員会委員を歴任。
東京都サッカー審判協会(RA東京)では96年の創立時から会長に就任し、関東サッカー審判協会会長も務める。
2021年、RA東京・会長を勇退し、顧問・名誉会長となる。
上野原市文化協会会長、柳営会会員。
名誉会員
長坂 裕子(ながさか・ひろこ)
1939年生まれ。1961年、長坂 幸夫 と結婚。1975年4月より、上野原町に居住。
1980年ころより、上野原市コーラスグループりんどうでソプラノ歌手として活動。
1990年、上野原市朗読の会を創設し活動。
1996年、東京都サッカー審判協会が設立され自宅が事務局となり、以後事務局の支援を献身的に続ける。
2005年2月13日、上野原市制施行とともに民生委員として地域に貢献する。
(民生委員は、県知事推薦、厚生労働大臣からの委嘱。)2010年まで2期6年間務める。
2014年から、R.A.TOKYOの家族会員カテゴリーが制定され、長坂幸夫会長の家族会員となる。
野村 六彦(のむら・むつひこ)
1940年、広島県生まれ。57年、広島市立舟入高校時代に全国高校サッカー選手権大会に出場し、優秀選手に選ばれる。
中央大学時代、全国大学サッカー選手権優勝3回、関東大学サッカーリーグ2連覇、大学単独チームでの天皇杯優勝。
1963年、日立製作所入社。1965年、日本サッカーリーグ(JSL)第1回得点王に輝く。
1972年、日立製作所サッカー部のJSL優勝、天皇杯初優勝の中心選手として活躍し、年間最優秀選手賞受賞。
1979年、日立製作所サッカー部監督就任。
監督引退後は、日立製作所ならびに日立マクセルの営業畑で企業戦士として奮闘。
1992年、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)・マッチコミッショナー就任。
2006年、Jリーグ・規律委員長就任。
2013年、「内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞功労賞」受賞。
2014年、日本サッカー殿堂に掲額される。
高田 静夫(たかだ・しずお)
1947年、東京都生まれ。東京教育大学(現筑波大学)でMFとして活躍。
関東大学リーグで2年連続優勝、全国大学選手権優勝。
73年、4級審判員としてスタート、80年、1級審判員資格取得。
1984年、国際審判員として登録され、同年12月のアジアカップ決勝大会(シンガポール)決勝で主審を務める。
その後、「1986メキシコW杯」「1990イタリアW杯」「1988ソウルオリンピック」で主審を務め、
1993年、初代Jリーグ最優秀審判員賞受賞。
1995年に現役審判員を引退。Jリーグ審判委員長を13年間務める。
日本サッカー協会審判委員長として4期8年を務め、2006年7月に退任。
「2006ドイツW杯」では、レフェリーアセッサーを務めた。
2013年、日本サッカー殿堂に掲額される。
東京都サッカー審判協会(RA東京)では、1996年12月の創立時から副会長を務め、2020年3月に勇退。
同年度から2022年まで日本サッカー審判協会(RAJ)会長。
早坂 良雄(はやさか・よしお)
1939年、東京都生まれ。
東京都立井草高等学校サッカー部に在籍。
1957年(昭和32年)第12回静岡国民体育大会に東京都代表選手として出場。
同校卒業後、三共株式会社に入社、サッカー部選手として活躍。選手引退後、監督を務めた。
監督引退後、1級審判員として活躍、多くの試合を担当。
神奈川県サッカー協会審判委員会では、氏平祐輔委員長のもと、
長く副委員長を務めるとともに、関東サッカー協会審判委員会の役員としても尽力した。
同時に審判インストラクターとして活躍し、多くの後進を育成。
また、並行して1996年のR.A.TOKYO 創設以来の会員として長く活動し、設立目的の実現に貢献した。
御代 典生(みよ・のりお)
1928年、東京都生まれ。中央大学商学部卒業。
上智大学サッカー部コーチを経て、1968年12月から長年にわたって、警視庁第五機動隊サッカー部コーチを務める。
審判活動は、大学時代に選手と併行しスタート。
1級審判員として、日本サッカーリーグ(JSL)でも活躍。
東京都サッカー連盟では、1968年から2000年まで都学連を担当。
1984年に「1級審判永年功労賞」、1999年に「日本サッカー協会功労賞」を受賞。
審判インストラクターとして指導するさいに、
レフェリングについて小型テープレコーダーにコメントを録音していくという
当時としては先進的な独自のくふうをこらして熱心に指導した。
2010年6月、82歳で没。
和田 勝(わだ・まさる)
1937年、東京都生まれ。
1955年より立教大学サッカー部で選手として活躍、卒業後家業の傍らコーチとして指導を続け、
1970年、立教大学サッカー部監督に就任。同年、部員の自主性を尊重する指導法で関東大学サッカーリーグ優勝。
1984年まで監督を務める。同年、東京都大学サッカー連盟理事退任。
1級審判員としても、日本サッカーリーグ(JSL)等で主審として活躍。
地元の練馬区では、学童野球連盟会長やPTA連合会長、民生委員など多くの役職を歴任し多大な社会貢献をする。
東京都サッカー協会審判委員会副委員長、東京都サッカー審判協会副会長として、長年にわたり審判員の活動環境整備等に尽力。
2020年10月15日、83歳で没。